京極家墓所

第22代高豊公は父高和公(徳源院殿徳英道達)を清瀧寺に祀り、処方に散らばっていた祖先の墓碑をこの地に集め、修理し現在の京極家墓地の形に作り直した。以来この寺は徳源院と呼ばれるようになる。同時に参道両側の十二坊も復興し、境内には三重の塔を建立し、庭園の復興も行いほぼ現在の徳源院となる。(寛文12年、1672年)

墓所上段は初代氏信公から18代高吉公まで18基、下段は19代高次公から25代高中公まで、および多度津藩公を含めて16基、併せて34基はいずれも宝篋印塔で鎌倉時代から江戸後期のものまで一堂に会している。
現在は国指定史跡となっております。

《宝篋印塔》

釈迦如来入滅後、凡そ百年後、インドの摩伽蛇国に阿育王(アショカ王)が出て、深く仏教に帰依し、仏舎利を分かって八万四千の塔をインド全国に建立したという。この阿育王造塔の故事にならって、呉越王の銭弘俶が八万四千の銅塔を作り、これに宝篋印心呪経を納めて諸国に領与した。一般に金塗塔と呼ばれる。現在日本にも何基か伝来している。この造塔の慣わしは日本の信仰界にも影響を与え、いろんな塔を作って供養することが流行した。宝篋印塔は、鎌倉時代中期に初めて現れ、五輪塔と並んで、わが国石塔の二大主流となった。